荷風はどこで秋水を見たのか 余丁町散人「荷風塾」学校通信 No.03 です。引き続き余丁町関連の話題で、今回のテーマは「荷風はどこで幸徳秋水を乗せた囚人馬車を目撃したか」と言うこと。
前回も触れましたが、当時日本きってのハイカラ男だった荷風が欧米から帰国後、急に文明開化に背を向けて江戸指向を強めていくきっかけに幸徳秋水事件があります。幸徳秋水とは明治43年年6月いわゆる大逆事件に連座して検挙され、天皇暗殺計画の主謀者として明治44年1月死刑を宣告され、24日処刑された明治の社会主義者ですが、荷風が住んでいた余丁町のすぐ裏にある市谷監獄に収容されていたのです。荷風の随筆「花火」の中に荷風が秋水を目撃する有名なくだりがあります。次の文章です。
「明治四十四年慶應義塾大学に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五六台も引き続いて日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うにいわれない厭な心持ちのしたことはなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に耐えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」
これは荷風の転向のきっかけを説明するものとしてよく引用される有名なくだりです。これに対して、これは荷風のポーズであるとかいろいろ議論もあるのですが、散人の興味は、あくまでも「荷風は秋水をどこで見たか」という点でした。
| 囚人馬車と荷風の通勤経路 市電路線図と坂道がポイントこれについては、いままで何となく曙橋の住吉町交差点あたりと考えていました。ところが最近当時の東京市街地図を手に入れたので検証してみたところ、考え違いをしていたことがわかったのです。
まず囚人馬車が日比谷に行く経路ですが、当時の市ヶ谷監獄は今の台町にありました。しかし台町坂はまだなかったので馬車は安養寺坂を下り曙橋商店街から靖国通りに出て左に曲がることになります。問題はこの次で、日比谷に行くためには津守坂を上がるルートと本村町を右に回って四谷見附に出る二つのルートがあります。でも当時の津守坂は非常に狭くとても馬車が通れないようであり、やはり本村町右折の線でほぼ間違いないと判断できます。
つぎに荷風ですが、余丁町から慶應義塾に行くのに当然市電に乗ったわけですが、当然靖国通りの住吉町交差点で電車に乗ったはずと散人は考えておりました。だから秋水を目撃したのも住吉町と思っていたのですが、今回調べてみて、実になんと当時の靖国通りには市電が走っていなかったことがわかったのです。荷風は市電に乗るためには四谷見附まで行くか、市ヶ谷見附まで行くか、いずれにせよ住吉町から相当歩いていたことがわかりました。
荷風はどちらの停留所を使ったかですが、両停留所とも余丁町からの距離はほとんど同じです。でも重要なことは坂です。四谷見附に行くには(徒歩ですからいろんなルートが考えられますがいずれにせよ)かなり急な上り坂を登らないと行けない。それに反し市ヶ谷見附の停留所は左内坂を下りた低地にあったと地図に書かれており、余丁町/住吉町から下り坂をだらだらと下って行けば着く。当然荷風は市ヶ谷に行ったと思われます。
ということで馬車と荷風の辿った道筋ははっきりしてきました。よって両者の接点は「住吉町から本村町までの間の靖国通り上のどこかである」ということになります。でも、正確にどの地点で出合ったかということは、まだはっきりしません。 |
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